3.11からの記憶「南三陸町、志津川の風景」
思えば昨日は、東日本大震災発生から100数十回となる月命日で、今回の旅はそんな被災地を巡る旅でもありました。
最初は、「さんさん商店街」に掲示されていたパネルからスタートしますが、ここ志津川地区は南三陸町の最大の街でもありました。


更地の公園と化した当時の街の中心部、その象徴的な建物が「南三陸町の防災対策庁舎」ですが、津波は3階屋上12メートルをもすっぽり呑み込み、あのアナウンスが今も耳に残ります。




地区の中央を流れる八幡川の橋を渡り、対岸にある「さんさん商店街」に入りますが、最初に紹介したパネルはここで見たものです。



そして、堤防を上り見た風景が、前日泊まった「ホテル観洋」の雄姿で、津波は2階の大浴場まで押し寄せたようです。
その後、最大20メートルの津波と度重なる余震に耐えた建物は、この地区の「ノアの箱舟」となり、孤立した600名を超える地域住民の暮らしを支えました。


「おかえりモネ」のもう一つの舞台、気仙沼市も全く同じ状況だったと思いますが、亡くなられた多くの方々とご遺族に哀悼の意を表します!!
最初は、「さんさん商店街」に掲示されていたパネルからスタートしますが、ここ志津川地区は南三陸町の最大の街でもありました。


更地の公園と化した当時の街の中心部、その象徴的な建物が「南三陸町の防災対策庁舎」ですが、津波は3階屋上12メートルをもすっぽり呑み込み、あのアナウンスが今も耳に残ります。




地区の中央を流れる八幡川の橋を渡り、対岸にある「さんさん商店街」に入りますが、最初に紹介したパネルはここで見たものです。



そして、堤防を上り見た風景が、前日泊まった「ホテル観洋」の雄姿で、津波は2階の大浴場まで押し寄せたようです。
その後、最大20メートルの津波と度重なる余震に耐えた建物は、この地区の「ノアの箱舟」となり、孤立した600名を超える地域住民の暮らしを支えました。


「おかえりモネ」のもう一つの舞台、気仙沼市も全く同じ状況だったと思いますが、亡くなられた多くの方々とご遺族に哀悼の意を表します!!
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