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2018/06/12

日本中世史終焉の場「九戸城跡」











今日は久々の歴史物語、九戸城と別れた後「二戸市埋蔵文化財センター」に立ち寄りましたが、そこで目にした岩手大学・菅野文夫教授の解説に譲ります。
 コメント欄は閉じておりますので、歴史好きの方はごゆるりとご一読いただければと!!

【「九戸一揆とは何か」】

天正18(1590)年7月、小田原北条氏を屈服させた豊臣秀吉は、さらに北に進軍し、自らは会津黒川城に滞在して東北地方全域はおろか北海道南部まで支配する体制をつくります。 奥州仕置と呼ばれる事件です。 秀吉は各地に配下の武将を派遣して太閤検地と刀狩りを強行するとともに、鎌倉時代以来の由緒をもつ葛西氏・和賀氏・稗貫氏などの所領を没収し、配下の大名に与え、あるいは直轄地としました。
 400年あまり続いた地域の政治・社会の秩序が否定され、豊臣政権の新方式が強制的に実施されたのです。
 同年9月には秀吉配下の武将は引き上げを開始しますが、その直後から反豊臣の一揆が起こります。 葛西・大崎氏の旧領にはじまるこの一揆はすぐに和賀・稗貫に燃えうつり、さらに糖部(現在の岩手県北部から青森県東部)にまで広がります。 宮城県から青森県まで、広大な一揆地帯が現出します。
 この一揆地帯にあってもっとも頑強に豊臣政権に抵抗したのが、九戸城による九戸政実とその同盟者たちでした。
 翌天正19(1591)年6月、秀吉は「奥州奥郡御仕置」のための大動員令を発します。 蒲生氏郷を主力として、浅野長政、堀尾吉晴といったそうそうたる秀吉配下の武将、また徳川家康の名代として井伊直政の軍勢が九戸城を包囲します。 政実らはついに降伏し、これによって豊臣政権は当時の日本の北端までをその支配領域におさめるのです。
 このように、九戸一揆は豊臣政権の全国制覇に対する最後の抵抗でした。 秀吉に忠実だった南部信直が「ことごとく侍・百姓らども、京儀嫌い申し候」と述べています。 武士だけでなく一般の民衆まで、社会・制度の急激な変化を強要する秀吉のやり方(京儀)に異議を申し立てたのです。
 この地域で豊臣政権に忠実だったのは、近世大名南部氏の基礎を築いた信直だけ。 信直と対立する九戸政実が反豊臣のリーダーにならざるを得なかった事情はそこにありますが、では信直と政実の対立とはどのようなものか。
 そこには戦国大名をめざすこの地域の諸勢力の複雑な動きがあったと想像されますが、その解明は今後の課題です。        「長々とお付き合い、ありがとうございます」温泉バカ

(ご参考) 九戸政実が主役の小説
         高橋克彦 「天を衝く」 ~ 秀吉に喧嘩を売った男 九戸政実 ~ (講談社)

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