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2011/09/08

堀川用水と朝倉の三連水車



昨日の秋月城を流れる小川もここ堀川用水も、同じ朝倉市内ののどかな風景ですが、
我が子たちが小さかった頃、沢ガニ・めだか・川エビ等を取って遊んだ場所でした。
今日は、こちら東北の農村でもほとんど見られなくなった風景をご覧いただきましょう。

【堀川用水及び朝倉揚水車の歴史・由来】  (現地の説明書きを転記)
当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災異変の中に、
幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が新田開発のため、寛文3年(1663
年)筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。 更に60年後の享保7年
(1722年)岩盤を切り貫き現在の取入口を新設したのである。
 しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。
そのためこの地では自動回転式の水車が設置されたのである。 三連水車は寛文
元年(1789年)に設置されており、三島・久重の二連水車も同じく宝暦のころに設置
されたものと思われる。 毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は、
3基で35ヘクタールにもおよぶ。

【最後の仇討、ドラマの筋書きのつづき】
明治9年、秋月で小学校の代用教員の職についていた六郎は、ついに東京に出る
決意を固める。 祖父・儀左衛門や助太夫には「勉学を重ねて官に職を得たい」と話す
が、もちろん仇討の決意を秘めてのことだった。
「きっと、御本懐を遂げられますよう、お祈り申し上げております」。まるで武士の妻の
ように指をついて六郎を送り出したなかは、福岡県庁で給仕の職につくことを決めた。
 県庁ならば、上京した人間の消息も聞こえてくるだろう。 つまり六郎のために一瀬
の行方を探るつもりだったのだ。

 東京に出た六郎は、叔父の四郎兵衛の家に居候をはじめるが、あるとき道場主の
山岡鉄舟と知り合い、弟子入りすることを決める。 実は鉄舟は旧幕臣の大物であり、
今は帝の侍従として宮内省に努める人物。 いまさら剣の修業をするという六郎に、
四郎兵衛は仇討を忘れられないのではないかと訝るが、入門先が鉄舟の道場だと
知り、安心する。
 六郎は、他の弟子と交わることもせず、一心不乱に稽古に励んでいた。 そんな
ある日、なかから手紙が届く。 一瀬が司法省の役人になったというのだ。 手紙が
届いて以来、どこか殺気立った六郎の姿を見ていた鉄舟は彼の決意を見抜くが…。

                        (残念ながら、これ以降はDVDでご覧下さい)

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