今回は立ち寄り湯のない旅で、帰りは「達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)」に参拝しました。 (「別當そして別當寺」は末尾で解説 )






【中世文学の故郷 「達谷窟と田村信仰」】 (解説をやや現代語風に一部修正)
坂上田村麿大将軍東征の霊蹟である達谷窟に関する最古の記録は「吾妻鏡」文治五年(1189年)九月廿八日の条であり、それ以降「諏訪大明神絵詞」や「田村草子」「鹿島合戦」等の中世文学の他、日本国中の社寺縁起にこの窟の名が見え、「公卿補佐」に「毘沙門天ノ化身来タリテ我国ヲ護ル」と記される様に、大将軍の本地を毘沙門天と見做す「田村信仰」の発祥地として、国の史蹟に指定されております。
達谷窟毘沙門堂のご本尊様は、お堂内陣中央の扉の奥に祀られる慈覚大師が大将軍のお姿を模して刻まれたと伝える秘仏であり、お堂床下の広い空間は、昔から諸国行脚の遊行の聖や山伏、乞食等の休める安住の宿として、また合戦に敗れた武士がしばし身を隠し、しかる後生まれ替わって行く再生の場として、さらには先祖の霊魂があの世から還りて集う聖なる処として、現在も人の立ち入る事を許さぬ禁足地とされており、その信仰は「窟の毘沙門様を拝めば災に遭うことなく、毘沙門様に引摂せられて極楽に往生す」と言われるほど、隆盛を窮めました。
三つの鳥居を潜って、達谷毘沙門堂及び別當(注)達谷西光寺におわす諸仏諸神にお参りすれば、大将軍の創建以来、今も変わらぬ「田村信仰」の霊場の佇いを、きっと懐かしく感じられる事でしょう。





【今日のウンチク「別當そして別當寺とは」】
別当とは、すなわち「別に当たる」であり、本来の意味は、「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味で、「寺社を司る官職」です。
別当寺は、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていました。神仏習合の時代から明治維新に至るまでは、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれました。 (以下省略)
我々が訪れたこの日も、お堂内陣でお祈りをされていたのはお坊さんで、神前読経など神社の祭祀を仏式で行っていることが良く分かる光景でした。