秀吉天下統一最後の戦い「九戸政実の乱」
今回の「三八上北の旅」の始まりは、8月23日に最初に立ち寄った“九戸城”ですが、この夜
はちょうど「九戸城月見の宴」でした。 では、久々の歴史物語とまいりましょうか。
【「九戸政実の乱」の物語】
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は最後まで服従を拒否していた小田原の北条氏を滅亡させ、
奥州仕置のため小田原を出発して宇都宮まで進みます。
ここで、小田原攻めに参陣しなかった、葛西晴信・大崎義隆・和賀義忠・稗貫広忠らの改易を
決定し、葛西・大崎領には木村吉清、鳥谷ヶ崎(現在の花巻市)には浅野長政が配置されます。
一方、前田利家らを通じて中央の政治情勢を注視していた南部信直は、一族の八戸政栄に
留守を託し、小田原の秀吉のもとに参陣します。
こうして信直は、秀吉から糠部・鹿角・閉伊・岩手・志和・稗貫・和賀の「南部内七郡」の本領
安堵を受け、豊臣大名としての公認を受けます。
天正19年(1591年)正月、南部信直の正月参賀を拒否した一族の九戸政実が挙兵、長年
燻ぶっていたお家騒動が表面化しました。
自力で鎮静化出来なくなった信直は秀吉に注進、秀吉の甥・豊臣秀次を総大将とする5万とも
10万ともいわれる再仕置軍がやってきます。 迎え撃つ九戸軍はわずか5千で、難攻不落と
いわれた“九戸城”を舞台に果敢に戦いましたが、9月に政実・実親兄弟は降伏します。
この本州最北の戦いで、豊臣秀吉の天下統一は完成しました。
【「九戸政実の乱」の布石】
時はさかのぼり天正10年(1582年)、南部晴政が病死すると南部氏は晴政の養子・信直と
実子・晴継の後継者を巡る激しい家督争いが始まります。 ここで晴政の後は、実子の晴継が
継ぎましたが、父の葬儀終了後、三戸城に帰城する際に暗殺されてしまいます。
急遽、南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われ、後継者としては、晴政の養子・信直と、
一族で有力勢力の九戸政実の弟で、晴政の娘婿である九戸実親が候補に挙げられます。
評定では実親を推す空気が強かったのですが、北 信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は
信直が後継者に決定します。
政実としては、恩ある南部宗家を晴継暗殺の容疑者である信直が継いだことに、大きな不満
を抱き自領へ帰還しますが、物語はここから始まりました。
(ご参考) 九戸政実が主役の小説
高橋克彦 「天を衝く」 ~ 秀吉に喧嘩を売った男 九戸政実 ~ (講談社)