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2014/06/25

九州ぶらり旅「栄華をきわめた小京都・日田」




栄華をきわめた天領時代の面影が今も残る九州の小京都・日田は、夏目漱石
や野口雨情など著名な文人墨客が愛した町です。
 2004年に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された日田豆田町は、
今回の旅の最後に立ち寄った場所でした。
 ここ日田地方の繁栄は、幕府の直轄地、いわゆる“天領”に制定されたことに
機を発し、小さな盆地の集落にすぎなかった土地には、全国各地の大名や商人
たちが流れ込み、日田豆田町は商家町として急速に発展していったようです。

でも、今回は歴史散策よりも食い気、昼食のための「日田まぶし 千屋」が訪れた
目的でした。
 さすがに老舗、名物の「日田まぶし」は国産うなぎの蒲焼きが炊き上げたご飯
にぎっしり詰まっており、まずはそのまま、次は薬味をのせ、最後は特製だし汁
と、一度に三度美味しい絶品のお昼でした。

ちょっぴり余裕のある皆さん、風情豊かな商家町をそぞろ歩いてみませんか!!

2013/04/22

仙台に眠る「鹿児島県人七士の墓」





昨晩はNHK大河ドラマ、綾瀬はるかちゃんの「八重の桜」でしたが、今日はそんな
時代に心を飛ばしてみたいと思います。
 実は、先日ご紹介した「瑞鳳殿」の手前にある「正宗山 瑞鳳寺」は、藩祖政宗公
の菩提寺として、寛永14年(1637年)、二代忠宗公によって建立された御一門格
寺院です。 御本尊は釈迦、文珠、普賢の三体で平泉毛越寺より遷したもの、梵鐘
は忠宗公の寄進によるもので県指定の文化財でもあります。
 さて、このお寺に意外な人たちのお墓があります。
      「鹿児島県人七士の墓」
「瑞鳳殿」の奥には戊辰戦争で亡くなった仙台藩士並びに関係者、2,600名の
弔魂碑がありますが、こちらは西南戦争に関係する方々のお墓なんですよね。

【仙台に眠る「鹿児島県人七士の墓」】  (説明書きを転載)
明治10年西南戦争に従軍し戦後官軍に投降した西郷軍は、国事犯として全国の
監獄署に護送された。 宮城県には椎原国幹(西郷隆盛の叔父)以下305名が
県監獄署に収容された。
 国事犯達は、自ら宮城県内の開発を願い出て、仙台、塩釜、野蒜、雄勝等で開
墾作業や築港工事に従事し、明治初期の宮城県の開発に大きな役割を果たした。
このうち13人は獄中で病のため歿してこの地に葬られた。
現在7基を残し6基は遺族に引き取られたという。 心から冥福を祈る。
                                  みちのく宮城鹿児島県人会

2012/03/24

岡城址、“荒城の月”の似合う古城



九州の旅の最後に訪れたのが、名曲“荒城の月”を生んだといわれる岡城址でした。
 海抜325mの台地にたつ、800年以上も前の古城ですが、城跡の広さは総面積で
100万㎡、東京ドームの22個分にあたります。 大野川の支流、稲葉川と白滝川が
合流する間の舌状台地上に築かれ、川岸からそそり立つ姿はかつて、「難攻不落」と
言われた天然の要害であったことを感じさせます。

【エピソード1、「竹田と仙台は姉妹都市」】
作曲家・滝廉太郎ゆかりの竹田市と、詩人・土井晩翠を生んだ仙台市は、音楽を通
じて相互に友好を深めようという「音楽姉妹都市」です。
 岡城址には滝廉太郎の銅像もありましたが、その近くには名曲“荒城の月”の歌詞
と土井晩翠の名が刻まれた歌碑もありました。

【エピソード2、「難攻不落の名城とは」】
仙台城も岡城も、自然の地形を巧みに利用した山城で、天然の要害そのものです。
 事実、岡城は豊薩戦争では島津の大軍が岡城を襲いましたが、僅か18歳の城主
が良く守り抜き、落城には至りませんでした。
対する仙台城は、豊臣・徳川の世を渡り抜き、戦いの舞台にはなりませんでした。

【エピソード3、「仙台城はだれのもの」】
現在、仙台城(青葉城)の本丸跡には宮城県護国神社がど~んと鎮座しております。
 それは歴史的な変遷があってのことですが、靖国神社と同様に「天皇・朝廷・政府
側の立場で命を捧げた者」を祭神としており、戦没仙台藩士はここにはおりません。
又、伊達政宗公を祀る神社も、明治初期に北山五山のひとつに移転させられました。
 この護国神社が仙台城址を所有し、観光の収益を独占している問題は異論も多く、
又、最近はやりの歴女が、政宗公を祀る神社と勘違いしているのも悲しい現実です。

仙台城址の風化を日々見ており、名曲“荒城の月”の似合う古城はこちらかな~!!

2011/09/08

堀川用水と朝倉の三連水車



昨日の秋月城を流れる小川もここ堀川用水も、同じ朝倉市内ののどかな風景ですが、
我が子たちが小さかった頃、沢ガニ・めだか・川エビ等を取って遊んだ場所でした。
今日は、こちら東北の農村でもほとんど見られなくなった風景をご覧いただきましょう。

【堀川用水及び朝倉揚水車の歴史・由来】  (現地の説明書きを転記)
当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災異変の中に、
幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が新田開発のため、寛文3年(1663
年)筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。 更に60年後の享保7年
(1722年)岩盤を切り貫き現在の取入口を新設したのである。
 しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。
そのためこの地では自動回転式の水車が設置されたのである。 三連水車は寛文
元年(1789年)に設置されており、三島・久重の二連水車も同じく宝暦のころに設置
されたものと思われる。 毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は、
3基で35ヘクタールにもおよぶ。

【最後の仇討、ドラマの筋書きのつづき】
明治9年、秋月で小学校の代用教員の職についていた六郎は、ついに東京に出る
決意を固める。 祖父・儀左衛門や助太夫には「勉学を重ねて官に職を得たい」と話す
が、もちろん仇討の決意を秘めてのことだった。
「きっと、御本懐を遂げられますよう、お祈り申し上げております」。まるで武士の妻の
ように指をついて六郎を送り出したなかは、福岡県庁で給仕の職につくことを決めた。
 県庁ならば、上京した人間の消息も聞こえてくるだろう。 つまり六郎のために一瀬
の行方を探るつもりだったのだ。

 東京に出た六郎は、叔父の四郎兵衛の家に居候をはじめるが、あるとき道場主の
山岡鉄舟と知り合い、弟子入りすることを決める。 実は鉄舟は旧幕臣の大物であり、
今は帝の侍従として宮内省に努める人物。 いまさら剣の修業をするという六郎に、
四郎兵衛は仇討を忘れられないのではないかと訝るが、入門先が鉄舟の道場だと
知り、安心する。
 六郎は、他の弟子と交わることもせず、一心不乱に稽古に励んでいた。 そんな
ある日、なかから手紙が届く。 一瀬が司法省の役人になったというのだ。 手紙が
届いて以来、どこか殺気立った六郎の姿を見ていた鉄舟は彼の決意を見抜くが…。

                        (残念ながら、これ以降はDVDでご覧下さい)

2011/09/07

「遺恨あり 明治十三年 最後の仇討」



今日のタイトルは、2011年2月26日に、テレビ朝日系列で放映された、単発スペシャル
のテレビドラマで、ここ秋月城下が事件発端の舞台でした。
 原作は、吉村昭の短編小説集「仇討」収蔵の「最後の仇討」で、1880年12月に実際に
起きた、日本最後の仇討事件とされる「臼井六郎仇討事件」を描いたものでした。
第37回放送文化基金賞で、テレビドラマ番組部門において本賞を受賞した作品でした。

【テレビドラマのキャスト】
  ◇ 臼井六郎(主人公、仇討実行犯):藤原竜也
  ◇ なか(六郎をひそかに慕う臼井家に仕える下女):松下奈緒
  ◇ 中江正嗣(東京上等裁判所判事):吉岡秀隆
  ◇ 一瀬直久(亘理を殺害した実行犯):小澤征悦
  ◇ 萩谷伝之進(清を殺害した実行犯):岡田浩輝
  ◇ 山岡鉄舟(幕末屈指の剣客):北大路欣也

【実話およびドラマの筋書き】
江戸城の無血開城から間もない、慶応4年5月、秋には明治と年号が改められる、武家社会
終焉の年。 九州の山深い小藩、秋月藩でその事件は起きた。
 その夜、秋月藩の執政・臼井亘理の屋敷に、同藩の過激攘夷派の藩士の集団“千城隊”が
侵入。 亘理の首を取り、その妻・清を惨殺したのだ。 開国派のリーダーであった亘理を
気に食わない、攘夷派の秋月藩国家老・吉田悟助がそそのかしたのだった。

物音に気付いた亘理の息子・六郎は、父のもとに駆けつけるが、そこで目にしたものは両親
の惨い遺体と、暗い部屋の隅に茫然と座っている、幼い妹・つゆの姿だった…。
 清の兄・四郎兵衛、亘理の弟・助太夫は、すぐさま国家老の吉田に仇討を願い出る。
だが、吉田は藩の法度で私闘は禁じられていると言い、この事件を闇に葬り去る。 しかも、
“千城隊”へのお咎めはなし。 その一方で臼井家には50石の家禄減知という、あまりにも
理不尽な処分が下され、11歳の六郎は父母の仇討を胸に誓った…。

 明治5年、廃藩置県で武士は家禄を失い、士族という名の失業者になった。 16歳になった
六郎はなかと力を合わせ、下手人を調べ上げていた。 父を殺したのは一瀬直久、母を殺した
のは萩谷伝之進であると…。 だが、助太夫は早々に仇討をあきらめ、四郎兵衛も「仇討など
忘れろ」と六郎を諭し、下級役人の職を得て東京に出て行った。
 ひとり仇討への思いが捨てられず、黙々と剣の稽古を続ける六郎に、一瀬が東京へ行くと
いう噂が届く。 太政官の役人となるのだという。

 仇討決行を決意した六郎は、父の形見の脇差を手に、早朝、藩境の峠道に実を潜めて一瀬
を待つ。 だが一分の隙もない物腰の一瀬を見て、六郎は見動きすらできず、情けなさに身を
震わせる。 次第を聞いたなかもまた、「うちも悔しかです…」と静かに涙を流すのだった。
 明治6年2月7日、太政官は“仇討禁止令”を発布。 これ以降の仇討は謀殺の罪として、
死罪にされることになった。
                              (まずは事件の発端から、時代の流れを!)

今から僅か130年前、福岡の小さな山里にも、大きな時代の波が押し寄せていたんですね。