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2016/10/10

日本昔ばなし「オシドリとクサガメ」





蒲生干潟の野鳥がまだ続きますので、連休最終日はコーヒーブレイク!!
久しぶりの「日本昔ばなし」、オヤジの素適なお話にお付き合いください。

【日本昔ばなし「オシドリとクサガメ」】
昔々、ある沼に大きな亀と、それは綺麗な鴛鴦が暮らしていたそうな!!
 ある晴れた日、沼の住人たちで「秋のお祭り」をやろうということになり、
余興にそれぞれが十八番を歌うことになったんだと。

舞台は大盛り上がりで、いよいよ二人を残すだけとなり、まずは亀どん!
 フランク永井の「夜霧の第二国道」は女性たちを酔わせ、会場は割れん
ばかりの大喝采、一躍優勝本命に躍り出たんだそうな。

そしてトリは鴛鴦どん、一節太郎の「浪曲子守歌」なんぞを歌うもんだから、
選曲の拙さ、だみ声、音痴と三拍子揃いで、人気は地に落ちたんだとか。
 それ以来、鴛鴦の雄は繁殖期以外は女形に身を隠し、ひっそりと暮らす
ようになったんだとさ。   (おしまい)   

   1、 「オラ、鼻高々~!!、エヘン!!」
   2、 「ほれほれ!!、そんなヨタ話を作るからさ~!!」
   3、 「え~っ、ヨタ話(?)」 「オラ!、恥んずかし~!!」
   4、 「オヤジの虚言癖にも、毎回困ったもんだの~!!」

「カモ一族のエクリプス」は以前の記事をご覧ください!!
http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2hpdG91bmltZWd1bWFyZS8zNjM4NjkwMy5odG1s

2015/09/09

日本昔ばなし「長元坊と美佐御」





いやはや!!、 いよいよ!!、 こまった!!、 まいった!!
写真の残りからひねり出したものの、「日本昔ばなし」のタイトルが、
中身は「新・ウソップ物語」になってしまったぞ!!

【第一話、「長元坊(チョウゲンボウ)」】

  「昔々あるところに、長元坊という偉いお坊さんがいたそうな」
  「村人から慕われたそのお坊さんは、亡くなると鳥になったんだと」
  「だから今でも、停空飛翔をして村の人々を見守っているそうな」
  「そんな鳥っこさ見たら、両手を合わせて拝むんだぞ」

【第二話、「美佐御(ミサゴ)の悲話」】

  「昔々あるところに、美佐御という美しい尼さんがいたそうな」
  「噂は当時の都までのぼり、多くの男どもがおしかけたんだと」
  「美佐御はそんな世を儚んで、海岸で入水自殺したそうな」
  「その時に魂が乗り移った鳥は、海岸や河口で暮らしてるんだと」

2013/11/01

秋保「小滝沢」にまつわる民話





昨日は「友、遠方より来る」で、久々に秋保温泉界隈の散策と市太郎の湯へ!!
昼食は秋保大滝の神社前にある、そば処「たまき庵」でした。
 今回はここまで足を伸ばしましたので、やや川下にある「小滝沢橋」に立ち寄り
ましたが、この橋は昭和14年(1939年)に、秋保町馬場の四ツ釜山と柳沢山を
水源とする芋生川に架けられました。
 橋長20.8m、幅4.5mの可愛らしい小さな橋は、宮城県内では珍しい石造り
のアーチ橋で、「眼鏡橋」とも呼ばれております。
今日は、この橋が架かる沢にまつわる秋保の民話をご紹介いたしましょう。

【秋保「小滝沢」にまつわる民話】
小滝沢は豊後館の要害の沢である。 城主が最上勢をむかえ討つ為、釜淵手前
の陣場まで出陣したところ、空になった城へ名取川向かいの白岩から攻められ、
留守を守る奥方は我が子を抱いて、小滝沢に身を投じたことから、のちに城主は
西光寺を建てて妻子の霊をとむらったので、「子抱沢」ともいわれている。

この界隈の紅葉には少し早かったようですが、今朝、我が家の外では、懐かしい
「ジョウビタキ」の鳴き声が聞こえておりました。

2013/08/24

日本昔ばなし「鳴いて血を吐くほととぎす」



今日は「ホトトギス(杜鵑・不如帰)」のお話に、お付き合いいただきたいと思います。
 さて、この鳥の鳴き声は、「テッペンハゲタカ(てっぺん禿げたか?)」 「ホンゾン
カケタカ(本尊欠けたか?)」 「オトウトタベタカ(弟食べたか?)」 「オトトコイシ
(弟恋し!)」 などと言われてきましたが、今日は最後に聞こえる鳴き方のお話です。

【日本昔ばなし「鳴いて血を吐くほととぎす」】
昔々、あるところにたいそう貧しい兄弟が暮らしていたんだそうな!!
兄は目が悪く、いつも家に閉じこもって暮らしていたんだと!!
そんな兄の為に弟は、村人から目に良いと教わった美味しい山芋を掘ってきて食べ
させていたんだけんど、自分は芋のしっぽばかりを食べていたそうな!!
 ほんでも、目の見えない兄は心がひねくれてしまっていて、弟が隠れて旨いものを
食べていると思い込み、ある日弟を殺して包丁で腹を切り開いてみたんだなや!!
 そすっと、突然兄の目が開いて、ものが見えるようになったけんど、弟の腹に
あったのは、それはそれは粗末なものばっかしだったんだと!!
 自分の心がひねくれていたことに気づいた兄は、「すまね~!、すまね~!」と
つぶやいているうちに、魂がぬけて鳥になって飛んでいったんだとさ!!
 その鳥っこが今で言うホトトギスで、その鳥が「オトトコイシ(弟恋し!)」と鳴くのは
そのためなんだよな~!!

実は、この話には続きもあっての~!!、山形の米沢地方ではの~!!
 ホトトギスになった兄は弟を殺した罪で一日に八千八回、喉から血が出るまで鳴か
なければならなくなったそうな!!
 ほいで、子どもを産んでも自分で育てることを許されず、別の鳥っこに里子に出さ
なければならなくなったんだとさ!!

今日の写真は、鳥っこが撮れながったんで花で我慢してけらいん! (おしめ~!)

2012/09/16

中国故事物語「蟷螂(とうろう)の斧」



先日は、久しぶりに「泉ボタニカルガーデン」を覗いてみましたが、セミたちの声も
ほとんど聞こえなくなり、雑木林の樹液に集まる虫も姿を消しました。
 芝生の広場がある花壇には、お腹の大きなカマキリが一匹、私を威嚇するよう
に鎌を振り上げるので、「蟷螂(とうろう)の斧」なぞを思い出しました。

【中国故事物語「蟷螂(とうろう)の斧」】
蟷螂が獲物を狙うときに前の両足を頭上にかざす姿は、斧を振るうのに似ている。
 虫の世界ではその斧は大きな脅威ともなろうが、いくら蟷螂の向う気が強くとも、
これしきの斧をもってしては、小虫以外の、もっと大きな相手に対してはまったく
威力のあろうはずがない。
 即ち、「蟷螂の斧」とは、弱者が自分の分や力をわきまえないで、ただ気ばかり
壮にして大敵に当たったり、盲進したりするするのをいうのであるが、「文選」には
陳琳(孔璋、三国時代の人)が、≪曹操すでに徳を失い依るに足らず故、袁紹に
帰すべし≫という趣旨を劉備らに書き送った檄の中に、曹操軍の劣弱な様を諷し
て「蟷螂の斧を以て隆軍(大軍)の隧(轍)を禦がんと慾す。」といっている。

【「蟷螂(とうろう)のひとりごと」】
何か今日は真面目だな~!、爺も暴徒化した中国のデモに怒っているのかな!!

2011/08/25

歴史ロマン「キリストの里伝承館」



「ゴルゴダの丘で磔刑に処されたはずのキリストが、実は密かに日本に渡り、この
みちのくの山村で百六歳の天寿を全うした。」 昭和十年、この竹内古文書の記述
を元に、古代史研究家らがこの地を訪れ、キリストの墓が発見されたという。
 こんなロマン溢れる山村を最初に訪れたのはいつのことだったでしょうか。
青森県新郷村がまだ戸来村と呼ばれていた頃、戸来→へらい→ヘブライ、そして
青い目の渡来人の末裔が住む山村とは、何とも魅力的な旅のおまけでした。
 写真は、キリストの墓とキリストの里伝承館ですが、真偽のほどはともかく、今日
はちょいと心を遊ばせてみましょうか。

【“キリストの墓”の解説】 現地の案内板をそのまま転記

イエスキリストは21才のとき日本に渡り12年間の間神学について修行を重ね、33才
のとき、ユダヤに帰って神の教えについて伝道を行いましたが、その当時のユダヤの
人達は、キリストの教えを容れず、かえってキリストを捕らえて十字架に磔刑に処さん
と致しました。
 しかし偶々イエスの弟イスキリが兄の身代わりとなって十字架の露と果てたのです。
他方、十字架の磔刑からのがれたキリストは、艱難辛苦の旅をつづけて、再び、日本
の土を踏みこの戸来村に住居を定めて、106才天寿を以って、この地に没しました。
 この聖地には右側の十来塚にイエスキリストを、左側の十代墓に弟イスキリを祀って
おります。 以上はイエスキリストの遺言書によるものと謂われております。

更に詳しい内容は、「キリストの里伝承館」で検索してご覧ください。    (おしまい)

2011/07/13

歴史秘話「厩石と義経北行伝説!」



昨日のブログで三厩(みんまや)を通り越しましたので、今日は温泉巡りを一休み、
時空を超えて生きる英雄のお話をしたいと思います。
 全国を飛び回り名所旧跡を見ることの多かった現役時代でしたが、「源 義経」と
その主従の足跡を示す建造物・伝説・地名は東北の各地に、更には北海道にも
数多く残されております。
 そして、東北における最北の地がここ三厩であり、柱に書かれた掠れた文字は
「源 義経“渡道之地”」、奥の岩穴にいたという三頭の龍馬のお話です。

【厩石の由来】 (近くにあった案内板を転載)
文治五年(1189年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衡に急襲された
源義経は、館に火をかけて自刃した。
これが歴史の通説であるが、義経は生きていた!!
 藤原秀衡の遺言(危難が身に迫るようなことあらば館に火をかけ、自刃を装って
遠くの蝦夷が島“北海道”へ渡るべし)のとおり、北を目指しこの地に辿り着いた。
 近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが
出来ない。 そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の
観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。
 丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ、“三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るが
良い。”と云って消えた。 翌朝、巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、
海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。
それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました。

【北海道にも残る義経伝説】
札幌時代に何度か遊びに行ったアイヌの集落“二風谷”、ここは宮崎駿の名作
「風の谷のナウシカ」の風景を思い出させるような所でしたが、そのすぐ近くにも
「義経神社」があり、アイヌの人たちに歓待を受けたとあります。
 又、滞在中には集落を外敵から守ったことから、「ハンガン(判官)カムイ(神様)」
と尊称されたとも云われております。
 ここ平取町のほかにも、松前町・本別町・寿都・積丹、果ては稚内に至るまで、
実に多くの伝説・地名が残されておりました。
                                           (おしまい)