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2023/08/27

鉄道遺産「峠駅を新幹線が通過する風景」

福島市の高湯温泉で立ち寄り湯の後は、今回の旅の目的地である「米沢八湯」を目指しますが、峠越えの途中に面白い歴史建造物があるので立ち寄りました。

【今日のウンチク “峠駅スイッチバック”】
ここ峠駅のスイッチバックは連続して続く4駅の一つで、奥羽本線の福島から米沢に至る板谷峠にあり、明治32年に導入された鉄道施設です。
 奥羽本線は、最も早く奥羽山脈を越え、最も海抜の高い所を走り、最も勾配の急な鉄道であるといわれ、その中でも峠駅は標高622mの位置にあり、この鉄道のほぼ最高地点でした。
 この地域は全国有数の豪雪地帯で、鉄道施設全体が「スノーシェッド」で覆われており、鉄道ファンには見逃せない歴史建造物です。

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我々は、駅構内のホームの待合所で軽い昼食を済ませ、駅から出る途中で新幹線の通過する風景に出会えました。

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2023/05/02

旅の終わりに「蔵の町並み、そして紅花と村田商人」

旅の最終日は、青根温泉から仙台市内に戻りますが、途中、歴史探訪「蔵の町並み、そして紅花と村田商人」に立ち寄りました。
 江戸時代、紅花はお隣り山形県と共に仙南地方の特産品で、この周辺地域で盛んに栽培されていました。 
 紅花は、着物の染料や口紅の原料として欠かせない農産物で、ここ村田町内の商家は周辺農家で収穫された紅花を集荷し、主に上方へ、一部は江戸に出荷し財を成しました。

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今回立ち寄った「旧大沼家住宅」もそんな商家で、お屋敷と建造物は町に寄贈され、「村田商人やましょう記念館」として一般公開されています。

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2022/08/22

宮崎駿の世界「天空の城ラピュタ」とは!?

宮崎駿の世界「天空の城ラピュタ」のモデルはここ!?、と思わせるような世界が、今回の旅で見た巨石に築かれた山城、岐阜県南部にある「苗木城跡」でした。
 苗木城跡は中津川市を東西に流れる木曽川の右岸、一段と高くそびえる山にあります。木曽川から山頂の天守跡までは、標高差約170メートル。急峻な地形を生かして築かれました。
 苗木城の城主は遠山氏。戦乱の時代から明治維新まで苗木領を治めました。
 現在は天守跡に展望台が設けられ、恵那山や木曽川をはじめ中津川市街を360度見渡すことができ、美しい景色が見ものの希少な歴史建造物です。

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私が圧倒されたのは、自然石を利用した石垣の多さで、全国的にも大変珍しい景色でしょうね。

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これで岐阜県伊那の旅、全10作のアップは完結し、「東北の温泉バカ」は午後から近くの温泉にプチ湯治です!!
 
2022/08/21

歴史を物語る「妻籠宿本陣」と「脇本陣奥谷」

妻籠宿の本陣は代々島崎氏が勤めていましたが、明治20年代に最後の当主広助(藤村の実兄)が東京へ出て、建物も取り壊されました。
 その後町に払い下げられたのを機に平成7年、江戸時代後期の間取りをもとに忠実に復元したのがこの建物です。モデルさんは彫刻家と映像作家でした。

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妻籠宿の脇本陣は屋号を「奥谷」といい、代々林氏が勤めてきました。木曽五木のご禁制が解かれて、明治10年(1877)に総檜造りで建て替えられたのが現在の建物です。
 昭和42年には妻籠宿保存の中核として公開され、平成13年には国の重要文化財に指定されました。裏の土蔵には、脇本陣関係の民俗資料や藤村文学関係資料などが展示されています。

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2022/08/20

町並み保存のさきがけ「中山道・妻籠宿(つまごじゅく)」

中山道・妻籠宿は、昭和40年代初め日本全国が高度経済成長に湧く中にあって、歴史的な景観を守るべく、率先して町並みを守る運動に取り組みました。
 そして今日、国の重要伝統的建造物群保存地区の主柱として、また全国町並み保存連盟の中核として、町並み保存運動の先頭に立っております。

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街道の中ほどにあった「枡形跡」は、敵の侵入を阻むために道を二度直角に折り曲げたもので、往時のままに保存されておりました。

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この日は旅の半ばの祝日、観光客を出来るだけ入れない撮影技術は少々役に立ったようです。

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2022/07/01

インスタ映えするアート作品「Tunnel of Light」

まずは、大地の地殻変動が造った渓谷の歴史建造物と、インスタ映えするアート作品「Tunnel of Light」をご覧ください。

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このアート作品のある場所「清津峡」は、古い時代に、黒部渓谷、大杉谷と共に日本三大渓谷として教科書にも登場した名勝の地です。
 渓谷の入り口には、日本秘湯を守る会のお宿「清津峡湯元温泉“清津館”」がありますが、この日は残念ながら休館日、横目でにらんで素通りでした。

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【アート作品「Tunnel of Light」とは】
越後妻有を代表する名所の一つ、清津峡渓谷トンネルを「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2018」でアート作品「Tunnel of Light」として改修。
 さらに、エントランス施設を新設。全長750mのトンネルを外界から遮断された潜水艦に見立て、外を望む潜望鏡として途中の見晴所と、終点のパノラマステーション等で作品を展開。
 自然の「5大要素」(木、土、金属、火、水)を利用しながら、建築的な空間とアーティスティックな雰囲気を作りだし、この歴史あるトンネルを変容させた。
 人間と自然の関係を改めて考え、地元の人々、来訪者双方を土地の圧倒的な美しさに再びつなげることを意図している。 (パンフレットをそのまま転載しました)

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2022/05/29

余市物語(その2)「旧下ヨイチ運上家の物語」

【北の大地の物語 「場所(ばしょ)と運上家(うんじょうや)」】
松前藩(函館、松前、江差といった和人地)は渡島半島の南端に位置し、農業に経済的基盤をおくことのできない藩でした。
 そのため、蝦夷地の砂金や木材などの特産物や、松前にやってくる交易船から得る税金などをおもな収入としていました。
 上級藩士への禄(給料)も蝦夷地の一定の土地を給地(商場)としてあてがい、対アイヌ交易で得たものを収入とさせていました。
 交易は運上金を支払った商人が請け負うようになり、商人は藩士が持っていた蝦夷地における漁業の権利を得ます。 交易の場であった商場はそこに住むアイヌ民族や出稼ぎしてくる和人が漁業を行う「場所(ばしょ)」に拡大し、アイヌ民族の大地であった蝦夷地は、幕末にかけてだんだんと和人地化してゆきました。

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こういった「運上家(うんじょうや)」は、蝦夷地沿岸各地におかれ、この運上家を拠点に商人は場所内に番人のいる番屋をおき、出稼漁者らの監視をし、自らの場所経営を行いました。

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その後、明治2(1869)年に開拓使が設置され、蝦夷地は北海道に改称されます。
 場所請負制は廃止され、運上家(屋)は本陣と改称、場所請負人目も廃止され、商人も漁場持と改称されました。
 そして明治9(1876)年には、漁場持の名称が廃止され、漁場が営業希望のものに割譲されました。 「今回は、北の漁場の長い長い物語でした!!」