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2019/07/02

北山五山と輪王寺(後編)「庭園が魅力“輪王寺”」

先月6月27日は、翌日から全国的に天気が崩れる予報で、久々に仙台の紫陽花寺「資福寺」を訪ねました。
 そして「資福寺」の次は、そのお隣にある曹洞宗の「輪王寺」ですが、今は池に咲くスイレンが彩りを添えていました。

【北山五山と輪王寺物語(後編)】
北山五山(きたやまござん)の江戸時代初期の並びは、東から西に光明寺、満勝寺、東昌寺、覚範寺、資福寺となっていました。
 現在、満勝寺が北山丘陵にないため、資福寺の西に隣接し、伊達五山と同様、福島から奥羽各地を伊達家と共に変遷した曹洞宗の「輪王寺」を代わりに加えて「北山五山」とする例もありますが、一般には誤用とされます。

【伊達政宗公が隠した「星の街」】
この北山五山の中央にある東昌寺と、仙台城本丸、そして榴岡天満宮を繋ぐ三角形、さらに大崎八幡宮と仙台東照宮、愛宕神社を繋ぐ逆三角形が「仙台の街」に隠されています。
 陰陽道では陽の星を「五芒星」、陰の星を「六芒星」で表し、どちらも様々な霊的攻撃から守るために使われてきた、平易な言葉にすると「結界」です。
 「六芒星」は、ユダヤ教では神聖な図形としてイスラエルの国旗にも描かれており、「ダビデの星」と呼ばれています。

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それでは、入口のゲートを越えて、5月中旬のアヤメやサツキの季節も終えた園内に入ります。

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2019/07/01

北山五山と輪王寺(前編)「紫陽花寺“資福寺”」

先月6月27日は、翌日から全国的に天気が崩れる予報で、久々に仙台の紫陽花寺「資福寺」を訪ねました。
 仙台の場合は心配するほどの大雨でもなく、梅雨に入った程度のお湿りでしたが、この三日間で境内の紫陽花も見頃を迎えたことと思います。

【北山五山と輪王寺物語(前編)】
北山五山(きたやまござん)は、仙台市青葉区の旧仙台城下町(現在の仙台市中心部)の北に、東西に横たわる北山丘陵にある5つの仏閣のことをいいます。
 仙台城の鬼門を守るという意味の他、奥州街道や根白石街道の関門になって仙台城下町の北の守りともされてきました。
 北山五山は、仏教を深く信仰した四代伊達政依が、現在の福島県伊達郡に鎌倉時代に創建した5つの臨済宗の寺が基になっており、伊達家の本拠の移り変わりと共に奥羽各地を変遷し、仙台開府の際に北山の地に落ち着き、以後「北山五山」と呼ばれるようになりました。

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境内を一回りし、本堂脇から裏門に向かいますが、駐車場から見た石碑が何ともオシャレです。

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2019/02/03

激動の歴史の中を歩みつづけた「白石城」







2つの温泉めぐりの途中に立ち寄ったのが、白石市の中心部にある「白石城」で、
建物は全国的にも数少ない、木造による復元が採用されています。
 今日は湯めぐりの合い間のコーヒーブレイク、激動の歴史の中を歩みつづけた
お城の物語です。 以下の文章は、観光案内所のパンフから転載いたしました。

(コメント欄は閉じており、歴史好き、城郭好きの方はごゆるりとご一読ください。) 

【激動の歴史の中を歩みつづけた「白石城」】
天正十九年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、
黒川城(現在の会津若松城)とともに蒲生氏郷に与えた。
蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は、白石城を築城し城主となった。
 慶長三年(1598)上杉領となるや上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再
構築を行い居城した。
 慶長五年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方
は再び伊達領となり、伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後は
明治維新まで二百六十余年間片倉氏の居城となった。

    【以下、城郭の構造などは割愛します】

元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の二城が許され、明治維新
には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公儀府が置かれ輪王寺宮が
滞城された。
 その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には
一役を担う重要な城であった。

2018/10/30

奥会津・只見川 「復活・霧幻峡の渡し舟」











今回の写真講座、午前中は早戸温泉「つるの湯」の船着場から、昔懐かしい
櫓櫂(ろかい)の和舟に乗って霧幻峡へ渡りました。

【以下は、霧幻峡プロジェクトの小冊子からの抜粋です】
霧幻峡は、300年間の歴史を紡ぎながらも、昭和39年に裏山の土砂崩れ
で、残念ながら廃村となりました。
 その廃村集落には、今なお大山祇神社や子安観音、霧幻地蔵や古民家、
硫黄鉱山等の産業遺産が歴史のままに残されています。
    (以下、一部省略)
 昭和39年4月16日午前6時、三更部落背後の上部山腹(通称ブナ坂)が、
大音響と共に崩壊し、一瞬の内に部落を埋め尽くしました。
 戸数10戸の三更集落は、集団移転を余儀なくされ、各地に分散、集落は
廃村となりました。それに伴い、集落と対岸の早戸との間を繋ぎ、地区民の
暮らしと命を守っていた渡し舟もその役目を終わる事になりました。

実は、今回講師を引き受けてくれた郷土カメラマン、星 賢孝(ほし けんこう)
氏は、この地で生まれ育った方でした。
(興味のある方は、この名前で検索すると、写真を含め色々出てきますよ!)

【こちらは、今年5月の早戸温泉「つるの湯」です】
https://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9oaXRvdW5pbWVndW1hcmUvMzc1MzQzOTEuaHRtbA--

2018/10/11

「幕末から新政府、翻弄される仙台藩」









三連休の最終日に纏めていたのは、久しぶりの「奥州歴史の旅」ですが、
湯めぐりの帰り道に立ち寄ったのが「旧有備館」でした。
 ここは鳴子温泉にほど近い、岩出山伊達家の学問所で、明治元年から
起算して150年の特別企画「伊達邦直と家臣団、ふたつの道の選択 ~
有備館からの出発~」が開催されておりました。

明治に改元される慶応四年、新政府軍と旧幕府軍とのあいだに始まった
戊辰戦争では、仙台藩は多くの死傷者を出しての敗戦となりました。
 戊辰戦争後、禄高を大幅に削減された伊達家では、家民救済のために
北海道開拓に活路を見出そうとします。

【北海道開拓にかかわった宮城県人】

   岩出山伊達家   …  現在の当別町
   亘理伊達家    …  現在の伊達市
   伊達一門片倉家 …  現在の札幌市白石区  など
   (片倉小十郎の流れをくむ白石城主、藩には二つの城がありました)

反面、歴史にはこんな史実も埋もれており、NHK「西郷どん」の続きです。
【仙台に眠る「鹿児島県人七士の墓」】
https://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9oaXRvdW5pbWVndW1hcmUvMzE1MDQ4ODUuaHRtbA--

最後は明るく「撮り鉄Kenちゃん」、JR陸羽東線「有備館駅」の風景でした。

2018/09/01

北のパラオ「天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑」






遠刈田温泉から蔵王連峰に向かい、「ブルーベリー農園」や蔵王酪農センターの
「チーズ工房」を過ぎたところに「北のパラオ」はあります。
 さて、天皇皇后両陛下が戦没者慰霊のため、「パラオ共和国」に行幸啓された
のは、今から3年前の4月、戦後70年の節目のことでした。

それから僅か2か月後の6月、両陛下はここ蔵王町北原尾地区にお立ち寄りに
なられ、当時は大変なお心使いに感動したものです。
 さらに一年後、開拓記念碑のお隣りには、「天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑」
も建ち、ご苦労された方々もさぞ感激していることでしょう。

【両陛下、「北のパラオ」訪問 宮城・北原尾】   (当時の日本経済新聞より)
私的旅行中の天皇皇后両陛下は17日午後、宮城県蔵王町の北原尾地区を訪問
された。同地区は太平洋戦争の激戦地だったパラオからの引き揚げ者らが戦後に
入植し、パラオを忘れないようにとの願いから名付けられた。戦後70年に当たり、
パラオで戦没者を慰霊した両陛下が訪問を希望されたという。

両陛下は開拓記念碑の前で、引き揚げ者の男性から入植後の経緯などの説明を
受けられた。天皇陛下は入植当時の粗末な家の写真を見て、「まだガラス戸とか
そういうのがないから、ずいぶん暗くて、寒かったでしょう」と言われた。その後、
両陛下は引き揚げ者3人と約15分間懇談された。     (当時の原文のまま)

そして、長年住民の心と体を癒した共同浴場、「孝の湯温泉」は静かに幕を閉じておりました。

2018/06/12

日本中世史終焉の場「九戸城跡」











今日は久々の歴史物語、九戸城と別れた後「二戸市埋蔵文化財センター」に立ち寄りましたが、そこで目にした岩手大学・菅野文夫教授の解説に譲ります。
 コメント欄は閉じておりますので、歴史好きの方はごゆるりとご一読いただければと!!

【「九戸一揆とは何か」】

天正18(1590)年7月、小田原北条氏を屈服させた豊臣秀吉は、さらに北に進軍し、自らは会津黒川城に滞在して東北地方全域はおろか北海道南部まで支配する体制をつくります。 奥州仕置と呼ばれる事件です。 秀吉は各地に配下の武将を派遣して太閤検地と刀狩りを強行するとともに、鎌倉時代以来の由緒をもつ葛西氏・和賀氏・稗貫氏などの所領を没収し、配下の大名に与え、あるいは直轄地としました。
 400年あまり続いた地域の政治・社会の秩序が否定され、豊臣政権の新方式が強制的に実施されたのです。
 同年9月には秀吉配下の武将は引き上げを開始しますが、その直後から反豊臣の一揆が起こります。 葛西・大崎氏の旧領にはじまるこの一揆はすぐに和賀・稗貫に燃えうつり、さらに糖部(現在の岩手県北部から青森県東部)にまで広がります。 宮城県から青森県まで、広大な一揆地帯が現出します。
 この一揆地帯にあってもっとも頑強に豊臣政権に抵抗したのが、九戸城による九戸政実とその同盟者たちでした。
 翌天正19(1591)年6月、秀吉は「奥州奥郡御仕置」のための大動員令を発します。 蒲生氏郷を主力として、浅野長政、堀尾吉晴といったそうそうたる秀吉配下の武将、また徳川家康の名代として井伊直政の軍勢が九戸城を包囲します。 政実らはついに降伏し、これによって豊臣政権は当時の日本の北端までをその支配領域におさめるのです。
 このように、九戸一揆は豊臣政権の全国制覇に対する最後の抵抗でした。 秀吉に忠実だった南部信直が「ことごとく侍・百姓らども、京儀嫌い申し候」と述べています。 武士だけでなく一般の民衆まで、社会・制度の急激な変化を強要する秀吉のやり方(京儀)に異議を申し立てたのです。
 この地域で豊臣政権に忠実だったのは、近世大名南部氏の基礎を築いた信直だけ。 信直と対立する九戸政実が反豊臣のリーダーにならざるを得なかった事情はそこにありますが、では信直と政実の対立とはどのようなものか。
 そこには戦国大名をめざすこの地域の諸勢力の複雑な動きがあったと想像されますが、その解明は今後の課題です。        「長々とお付き合い、ありがとうございます」温泉バカ

(ご参考) 九戸政実が主役の小説
         高橋克彦 「天を衝く」 ~ 秀吉に喧嘩を売った男 九戸政実 ~ (講談社)