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2021/01/24

雪景色の「達谷窟毘沙門堂」

今回は立ち寄り湯のない旅で、帰りは「達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)」に参拝しました。 (「別當そして別當寺」は末尾で解説 )

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【中世文学の故郷 「達谷窟と田村信仰」】 (解説をやや現代語風に一部修正)
坂上田村麿大将軍東征の霊蹟である達谷窟に関する最古の記録は「吾妻鏡」文治五年(1189年)九月廿八日の条であり、それ以降「諏訪大明神絵詞」や「田村草子」「鹿島合戦」等の中世文学の他、日本国中の社寺縁起にこの窟の名が見え、「公卿補佐」に「毘沙門天ノ化身来タリテ我国ヲ護ル」と記される様に、大将軍の本地を毘沙門天と見做す「田村信仰」の発祥地として、国の史蹟に指定されております。
 達谷窟毘沙門堂のご本尊様は、お堂内陣中央の扉の奥に祀られる慈覚大師が大将軍のお姿を模して刻まれたと伝える秘仏であり、お堂床下の広い空間は、昔から諸国行脚の遊行の聖や山伏、乞食等の休める安住の宿として、また合戦に敗れた武士がしばし身を隠し、しかる後生まれ替わって行く再生の場として、さらには先祖の霊魂があの世から還りて集う聖なる処として、現在も人の立ち入る事を許さぬ禁足地とされており、その信仰は「窟の毘沙門様を拝めば災に遭うことなく、毘沙門様に引摂せられて極楽に往生す」と言われるほど、隆盛を窮めました。
 三つの鳥居を潜って、達谷毘沙門堂及び別當(注)達谷西光寺におわす諸仏諸神にお参りすれば、大将軍の創建以来、今も変わらぬ「田村信仰」の霊場の佇いを、きっと懐かしく感じられる事でしょう。

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【今日のウンチク「別當そして別當寺とは」】
別当とは、すなわち「別に当たる」であり、本来の意味は、「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味で、「寺社を司る官職」です。
 別当寺は、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていました。神仏習合の時代から明治維新に至るまでは、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれました。 (以下省略)
 我々が訪れたこの日も、お堂内陣でお祈りをされていたのはお坊さんで、神前読経など神社の祭祀を仏式で行っていることが良く分かる光景でした。
2021/01/22

雪景色の「世界遺産 中尊寺」

今回の湯めぐりの始まりは、湯宿の前に雪景色の「世界遺産 中尊寺」からスタートしました。

天台宗東北大本山。850年、慈覚大師円仁の開山。12世紀初め奥州藤原氏初代清衡公が前九年・後三年の合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するため大伽藍を造営しました。惜しくも14世紀に堂塔の多くは焼失しましたが、金色堂始め三千余点の国宝・重要文化財を伝える平安仏教美術の宝庫です。
 平成23年(2011年)に、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」として、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。

先ずは覆堂の中の「金色堂」(内部は撮影禁止のためHPの画像を借用)を拝観し、お隣りの「経蔵(きょうぞう)」、そして「旧・覆堂」へと進みます。

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その後、月見坂に出て「弁財天堂」から坂を下り、「不動堂」「峯薬師堂」「鐘楼」へと戻り、宝物殿の「讃衡蔵」を拝観いたしました。

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2020/11/12

銀山温泉の思い出「白銀公園と銀鉱洞」

以下の解説は、公園内に設置されていた「白銀公園と銀鉱洞」を転載したものですが、歴史学者の文法が個性的なため読みづらいんですよね。

 その昔、銀は金よりも値打ちの高い「白銀」とも呼ばれた。白銀公園は、多くの銀を産出したこの地にちなんで命名され、山形市に至誠堂病院を建てた大石田町の田中豊氏が私財を投入して昭和四年(1929)に着手、同五年に開園した公園である。

 その後昭和60年(1985)、延沢銀山の間歩(坑道)・疎水(水抜き坑)等の東山地区、守護神である山の神神社、野辺沢氏の居城である延沢城跡の三箇所が、わが国近世の鉱山史研究にとって欠くことのできない遺跡として、島根県の石見銀山に次いで国の史跡に指定された。平成十年(1998)から、この歴史的遺産の保護と活用を目的とした、四年間の遺跡整備事業を経て現在に至っている。

 この一帯は堅刈山を中心とした東山地区で、銀鉱洞(堅刈大廃坑)は地区最大規模の鉱床である。周囲の岩盤は極めて堅いため、当時の鉱床開発に用いたとされる独特な採掘技術(焼き掘り)の跡が、西山地区も含めて採掘後四百年近くを経過した今日でも、ほとんど完全に近い形で残る貴重な鉱山遺跡である。         平成12年11月  尾花沢市

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今年もご縁があって、このメンバーとの紅葉の湯めぐりができました。  感謝!!感謝!!
2020/11/08

日曜特番「おくのほそ道の風景地 本合海」

「おくのほそ道」を旅した俳人・松尾芭蕉は、ここ本合海から乗船して庄内に向かいましたが、「芭蕉と曾良」の像と「五月雨をあつめて早し最上川」の句碑が立てられていました。

 【さてここからは、新庄市教育委員会の案内板を転載いたします。】

 俳聖 松尾芭蕉が新庄に立ち寄ったのは、陸奥・北陸路の歌枕の地を訪ねた「おくのほそ道」の途中、元禄二年(1689)六月のことです。句会など二泊した後に、本合海のこの地から舟に乗り最上川を下って行きました。その乗船時に眼前に現れたのが矢向山(やむきやま)です。

 山形県内を北上してきた最上川は、矢向山南壁に当たり大きく西へと流路を変えます。山の断崖には落葉広葉樹などとともに朱色の矢向神社が見え、崖の上には戦国期に築かれた楯の跡があります。古より川の恵みで栄えてきた本合海は、舟運の川湊として庄内と内陸、また太平洋側とを結ぶ交通の重要な役割を担ってきました。

 芭蕉は「おくのほそ道」を通し、変わらずに遺されてきたものと移ろい往くものとを同時に捉えようとした「不易流行」の精神を、古歌や故事で知られた旧跡地の風景に表し、俳句のなかに書きとめました。

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 本合海は、その風景地の一つであるとともに、これまでに詠まれた和歌などの碑も多くあります。このように当地は、明媚な眺望とともに歴史・文化的背景が織り交ざる一体的な風致景観を呈しており、平成26年に文部科学省より「おくのほそ道の風景地」の名勝指定を受けました。

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2020/10/24

世界農業遺産「大崎耕土と南原穴堰」

今回の鳴子温泉プチ湯治で、夕食時に女将から教わった言葉が、「世界農業遺産」「大崎耕土」「南原穴堰」、これで二日目の歴史探訪が決まりました。
 宮城県北の大崎市、色麻町、加美町、涌谷町、美里町の1市4町からなる大崎地方。 江合、鳴瀬の二大河川と、流域に張り巡らされた水路が「大崎耕土」を潤しています。
 先人から受け継ぐ伝統的水管理システムは、2017年12月、国連食糧農業機関(FAO)から「世界農業遺産」に認定されました。

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その一つ「南原穴堰」は、奥羽山脈の山形県境に近い大崎市鳴子温泉南原地区にあります。
 この地区は中山間地にあり、川からの取水が難しかった同地区にとって、農業用水の安定確保は切実な願いでした。
 近くの東遠鈴沢から水を引くため、江戸時代初め先人が知恵と工夫を凝らし、約19年の歳月をかけて手掘りで山をくり抜き水路を作りました。
 堰の全長1,880mのうち実に1,330mをトンネルが占め、その高低差は約20mで、勾配は僅か1%【100m進むと1m登る勾配(角度)が1%】、満足な道具も無い時代、洞窟内でたいまつを灯し、対岸からの明かりを確かめながら勾配を測ったと伝えられています。

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近くには、南原穴堰を構想した江戸時代の役人、遊佐平左衛門宣次を祭った「遊佐大神の碑」がありますが、先人の遺徳をしのび幕末に建立されました。

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「穴堰」の完成から400年近くを経た今も、地元の「南原穴堰水利組合」の組合員20人ほどが、春と秋の年2回見回っており、水路の落ち葉を取り除いたり、堤を補強したりして地域の遺産を受け継いでいるそうです。
(追記、地元紙「大崎タイムス」と、現地二ケ所の案内板を基に、この文章を纏めました!!)
2020/09/25

みちのく小さな旅「伊達家重臣、片倉小十郎を訪ねて」

白石市の名湯「鎌先温泉」のプチ湯治の前に訪れたのが、片倉小十郎の城下町「白石」でした。
 初代片倉小十郎景綱は終生政宗につかえ、伊達家随一の名参謀と言われていますが、まずは「白石三白(しろいしさんぱく)」の一つ温麵(うーめん)で腹ごしらえです。
 なお、白石の昔からの名物「白石三白」とは、温麵(うーめん)と和紙と葛で、1万8千石の小大名が南の軍事拠点を守るには、それなりの経済力と軍事力を備えていたようです。

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仙台藩の南の要衝で、軍事上重要な拠点だった白石城を景綱が拝領したのは慶長7年(1602年)、以来明治維新に至るまで10代約260年にわたり片倉氏が居城しました。

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白石城を抜け外堀を兼ねていた沢端川を西に行くと、そこは中級武士の屋敷があった静かな住宅地で、茅葺屋根の旧・小関家が解放されています。
 武家屋敷といえどもその造りは極めて素朴で、農家住宅を素地にしている初期段階の造りのようです。 この橋に佇んでいる吉永小百合のポスターが欲し~い!!  「隠れサユリスト」

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2019/11/20

山寺(寳珠山 立石寺)の思い出「ぴんころ車」

山形の旅で最後に訪れたのが山寺こと「寳珠山 立石寺」ですが、ここはかの松尾芭蕉翁の俳句でも有名な地です。
    静かさや 岩にしみ入る せみの声
今日は、そんな風景をご覧いただきながら、爺々のたわごとにお付き合いください。

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でも、私の心にしみ入ったのは、山頂でお参りをした際の「ぴんころ車」
    健康でいつまでもピンピンと
    いよいよの時が来たらコロッと
私もいよいよ終活期に突入、「出来ればオイラもかくありたい」ものです。

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思いを込めて「数珠玉」を一周させると、その願いが叶うそうですよ。  「びんころオヤジ」